化け猫考証学

猫は、ところによって年数にばらつきがあるが、七年以上飼い続けると化ける、と言われ、あまり長く飼うことを忌避するのが習慣になっていた。猫は不意に姿を消したり人に死に際を見せない といった傾向があり、こうした不可解で疎遠な一面が原因の一つとして考えられるが、 ともあれ、こうしたことはおよそ昭和の頃まではあちこちでまことしやかに囁かれていたように思われる。

広島県山県郡では7年以上飼った猫は主人を殺すといい、茨城県や長野県では12年、沖縄県国頭(くにがみ)地方では13年目になると化け猫になるといっていた。 こうした禁忌はほぼ全国的に見ることができる。(引用)

また、猫は夜行性の動物であり、夜中のさかりがついた猫の求愛行動などは実に不気味な唸り声を伴っての気持ち悪いものである。 これもまた猫をして妖怪変化せしめる重要な根拠の一つであろう。

また、近年においては交通事故で車の餌食になる猫どもが後を絶たない。道路脇に臓物をさらけ出した猫の死骸を人知れず片付ける者もあるが、 干乾びてせんべいになるまで放置せられ最後はあはれ毛皮のみぞ残れるものもある。まったく猫の気まぐれが引き起こすこととはいえ、 人間に対する呵責があって当然だが猫はにゃんとも言えない。これら猫の怨念もまた猫をして妖怪変化せしめるに十分な根拠となるであろう。

化け猫帝王学

化け猫の中の化け猫、即ち化け猫の帝王と呼ぶにふさわしい化け猫現象を文献から探ってみよう。

はじめに化け猫と聞いて思い浮かぶのが、映画などで見る、夜中に行灯の油を舐める化け猫や、 佐賀県鍋島の化け猫騒動であろう。鍋島の化け猫騒動とはおおよそ次のような話である。

鍋島の化け猫騒動は肥前国佐賀藩の二代藩主鍋島光茂の時代だというから、光茂が藩主になった明暦三年(1657)から隠居する元禄八年(1695) の間である。光茂の怒りを買って惨殺された臣下の竜造寺又七郎の母が飼っている猫のコマに悲しみを語って自害すると、その血を舐めた猫は藩主の妾お豊を 締め殺してお豊に化けて復讐を始めた。しかし、光茂の忠臣小森半佐衛門に見破られ、福岡県の宝満山の楠の岩屋に隠れたが、結局、追手と大乱闘の末に殺されてしまう。(引用)

化け猫の例として、他に次のような話もある。

ある旗本が娘の世話役を探していると、谷中法恩寺の教蔵坊が年増の女を紹介した。手跡も歌の道もそれなりのもので、教養もあった。 数年経ったある夜、旗本が娘の部屋を覗くと、娘は寝ていて、女が一人でいたが、口は耳まで裂けて耳を反らせていた。 すぐに手を打とうと思ったが、夜中に異変があっては困る。旗本は夜が明けるのを待って、女を呼ぶと「仔細あって暇を取らせる」と告げた。 女は「これは思いもよらぬこと、今、にわかにそのようなことを・・」と驚いたが、その形相は恐ろしいものに変わっていた。 それを見た旗本が抜き打ちに斬り捨てると、大きな古猫だった。(引用)

化け猫修行とは何と滑稽な。

九州では化け猫になる修行の山がある。熊本県の阿蘇五岳の一つ1408mの根子岳で猫岳ともいう。昔、ここには虎のような猫の王者が棲んでいて、 道に迷った旅人を猫屋敷の下働きの猫に変えたという伝説があり、伝承によって異なるが、除夜か節分の夜に九州の猫が集まって会議を開いたそうな。
会議がいつの間にか修行の場になり、「猫岳参り」で修行した猫は化ける力がつき、里に戻ると猫の頭領となった。耳が裂けているのは免許皆伝の印に耳たぶをかみ割ってもらったもので、 尾が二又になったり、恐ろしい面相になるという。(引用)

次に、猫又であるが、猫又と化け猫の区別は実のところ曖昧のようである。右の絵では、尾が根元から二又に分かれている猫又が描かれている。 二又だから猫又なのかと思うが、話はそう単純でもなさそうだ。

猫股とも書くように、人に呪いをかける時に、その人をまたぐので、猫またぎが訛ったものだともいわれる。
妖怪だから人語を解するのは当然だが、人を喰い殺して、その人に成り代わることもあり、雌の猫又はときおり男の夢に現れて、精を奪ってゆくこともある(夢魔という)。
さらに、山に棲んで人を襲うこともあり、富山県の猫又山、猫又谷をはじめ福島県の猫魔ヶ岳、長野県の猫又池、群馬県の猫又川、東京都の猫又坂など各地に名前が残っている。(引用)

雌の猫又が男の夢にでて精を奪うなどとは、ちょっと艶っぽい話のようだが、相手が妖怪なだけにまっぴら御免こうむりたいものである。 猫又について、他の例も見てみよう。

福島県の猫魔ヶ岳に伝わる話だが、奥方を連れて磐梯の湯に行った侍が宿に奥方を残して沼へ釣に出かけた。その日は近くの釣小屋に泊まって大漁の魚を焚き火で焼いていると、 小屋の入口から侍の乳母が覗いている一緒に串焼きの魚を食べたが、魔性の者と見破って斬り殺すと、魚の匂いに引かれてきた、年老いた雌の黒猫だった。 急いで宿に帰る途中、奥方が昨夜から行方不明だと聞かされ、村人らと捜索すると、樹上に奥方の屍体を見つけたが、それは、昨夜、侍に斬り殺された黒猫の夫の仕返しだった。 樵に化けて捜索隊にいた猫又は、奥方の屍体をくわえると、宙を飛ぶように梢を渡って、姿を消した。数日後、猫又は洞穴に潜んでいたところを退治されたという。(引用)

新潟県には猫又に兄弟を殺された話がある。

新潟県権現堂山は九百九十八メートルの山で、身の丈三尺(約九十一センチ)の猫又が棲んでいた。 麓の村に仲のよい猟師の三兄弟が住んでいて、権現堂山で猟をしていた。 長男が一人で小屋に泊まっていると、婆さんが「麻を撚りにきた」と言って入ってきた。ぼさぼさの髪を肩まで垂らし、ぎらぎら光る目をしている。 化け物と気づいた長男は、用達しのふりをして外へ出ると、戸口の隙間から婆さんを鉄砲で撃ったがビクともしない。 もう一発撃ったが、婆さんは振り返って不気味に笑った。三発目の弾丸を込めようと目をそらした時、叫び声とともに戸が押し倒され、長男は喉笛に鋭い爪をたてられ殺された。 長男の帰りが遅いのを心配して次男が小屋に出かけると、兄の着物や体の一部が血の中に散乱し、小屋の周りには大きな猫の足跡があった。 猫又の仕業だと思った次男は、仇討ちをしようと小屋に泊り込んだが、長男と同じく殺されてしまった。 三男が仇討ちに出ようとすると、物知りの老人が「化け物の実体は陰に隠れているので、鉄砲を撃つ時は陰を狙え」と注意した。 三男がその通りにすると、猫又はギャッと悲鳴をあげ、逃げていった。それからは権現堂山に猫又がでることはなくなったという。(引用)

化け猫の話として変わったところでは、次のような話もある。

猫南瓜という和歌山県西牟婁郡に伝わる怪異。
猫を殺して埋めたら、その猫の口から毒のある南瓜が生えてきたという話で、殺した者に食わせるために、猫の執念から生えたものだという。(引用)

さらに珍しいところでは、パロディとしての創作化け猫。五徳猫というのがある。 これは、言葉あそびで創られた化け猫で、五徳とは囲炉裏で鍋を支える道具のことである。この発想が生まれた背景には次のような事柄がある。
『平家物語』の作者とされる信濃前司行長が、舞楽の七徳の舞のうち二つの題をど忘れしたという理由で、五徳冠者と揶揄されたという話。
その『平家物語』に登場する猫間という公家の存在。
猫といえば囲炉裏端にいるもの。
と、まあ、これらの連想で五徳猫が生まれたというわけだ。

以上、化け猫、猫又と眺めまわしてみると、あらためてこれら二者の境界線が非常に曖昧であることがわかる。 個人的な意見だが、猫又は化け猫という言葉より古く、化け猫の起源は猫又ではないか。 それは単に「化け猫」という言葉が「猫又」という言葉よりも耳に馴染みがある、すなはち、より新しい、という理由からだ。 おそらく両者とも猫の化け物と指す言葉として同義であると思うが、「化け猫」は、より現代風に、時間とともに化け物の要素がろ過されてきたものではないだろうか。

最後に、この章の結論を述べておかねばならない。
全く直感的であるが、「鍋島の化け猫騒動」を化け猫の帝王として任命することにする。 化け猫の典型として芝居にまでなったこの鍋島騒動は虚偽であれ事実であれ広く万民の化け猫像として流布しているという状況を軽んずることはできない。 読者には異論を唱える方々もあるだろうが、それはそれで独自のHPにて開陳して頂きたい。 通読ありがとう。

化け猫運動生理学

運動生理学とはいうものの、化け猫は奇奇怪怪変幻自在の妖怪であるが故に人間その他哺乳類のような運動生理学は通用しない。 妖怪には妖術があるのだ。

化け猫

化け猫

猫又

猫又

鳥山石燕 『画図百鬼夜行』

五徳猫

五徳猫

化け猫談義

ろくろく首

化け猫談義に花を咲かせりゃ、われもご相伴、と、ろくろく首か。。。